『望んだ世界』なのか『与えられた世界』なのか
「痛っ..!」
皆さんはどのくらい寝違えを起こすだろうか?私は昨日から左の背中から首にかけてが痛い。
僧帽筋のトレーニングメニューを少し変更して、そしていつもよりも強めに行なったら、頚椎(首の背骨)の左側の筋肉が痛くなってしまった。多分筋肉痛なのであろうけれども、それでも痛み自体は不快で、ベッドから横になるのも起き上がるのも、痛みで億劫になる。オフィスではスタンディングデスクをいつもよりも少し高めに設定して、起立している状態を維持しているので、それほど痛みは気にならないようにできるが、腰をかがめたりすれば痛みが走る。まるで寝違えたみたいになる。うちには犬が4匹いるが、やんちゃくれな末っ子は横になると飛びかかってくる。そのたびに首が痛む。痛みは不快であるが、トレーニングが効いている実感に注目し、痛みをじっくり味わうことにする。痛みも考え方次第では、日々を彩る変化の刺激となる。いわば人生のスパイスのようなものだと思うようにしている。
もしトレーニングを強制されたもので、そのトレーニング自体に意味を感じないのであったなら、とてもそうは思えなかっただろう。ただ痛みに対して腹立たしかっただろう。泣きたいくらいの痛みなのだから。きっとその時の表情も泣きたいのを我慢している顔になっていることだろう。しかし私の顔は違う。痛みを笑い飛ばす笑顔の表情の作り方もトレーニングしてある。笑顔を強制的に作ることで、なんだか笑い飛ばせる気がしてくるのだから、笑顔を作るトレーニングはなかなか実用性が高い。
私が日々行うトレーニングは、決して誰かに強制されて行なっているものではない。自ら望んで行なっていることである。なのでその結果が一時的に望ましいものでなく不快なものを引き連れてきたとしても、それもひっくるめて私が望んで選択した結果なのである。そう思えれば、痛みですら笑い飛ばすことができる。私は『自ら望んだ世界』に生きているのだ。
これを「自分には選択の余地がない」「変更ができないものばかりの中に生きている」という『与えられた世界』に生きている、と考えると、痛みに耐えることは難しくなる。不快感が通り過ぎるのをじっと待つしかなくなる。
私はデスクの周辺でもノートでも、好きなもの(大抵は、妻と犬、か アイアンマン)の写真や、お気に入りの言葉を目のつきやすいところに配置している。好きなものに囲まれて生きている、と実感しやすいようにしている。ストレスを減らそうとする効果ではなく、ストレスが一旦高まった際に、高まったストレスを利用するために、である。パフォーマンスを向上させるために、最初に敢えて一旦はストレスを高めることが必要であり、その高まったストレスを集中力に転化するために「これは自ら望んだことである」と思うことで、ストレスを『好ましき刺激』として迎え入れるためである。
受け身の選択か 攻めの選択か
私たちは、常に様々なことを選択して生きているが、それでも大半は選択をしていることを意識することがない。ほとんどが無意識的に選択しているか、あるいは選択が終わった直後にその選択をしたこと自体を忘れていく。望むか望まないかに関わらず、非常に多くのことを選択しているのにも関わらず。先ほど、パフォーマンスを上げるために一旦ストレスをかける、と書いたが、自分にとって重要な人であれば、苦手なタイプの人であっても関わることにしている。苦手なタイプの人とのコミュニケーションはストレスになるが、それが一時的にパフォーマンスを上げるための刺激として効果を出すことに使える場合がある。なので、苦手なタイプの人とのコミュニケーションも「自ら望んだこと」であり、そう考えると、それ自体を笑って受け入れることができるようになった。苦手な人とのコミュニケーションも、私を取り囲む好きなもののうちの一部となるのである。自ら進んで選択したものだからこそ、そう考えることができるのである。無意識的に選択してしまうのであれば、苦手な人は単に避けるだけになってしまうだろう。しかしそこを意識的に選択するようにすれば、全然違った解釈にできてしまう。選択の連続が起こっているという事実を日々思い出すだけで、受け身の選択ではなく、攻めの選択ができるようになる。
目のつくところに好きなものを飾る
写真はとても効果がある。そして動画はもっと効果がある(しかし動画はなかなか再生しっぱなしで飾っておくには難しいし、何より作業中では気が散ってしまうので、写真がちょうどいい)。毎朝、好きなものを一瞬眺めるだけでもいいし、デスク付近に気が散らない程度に写真を飾っておくといい。好きなものに囲まれている、という感覚が、今の自分の世界は『自らが望んだ世界』である、攻めの選択の結果である、ということを意識させてくれる。そうすれば、一時的に望ましくないことや望ましくない人間関係に絡みつかれても、それが長期的にみていい効果を出すことなのであれば「利用すれば良い」と思えるようになる。『痛み』も『不快』も『好きなもの』の中に混ぜ込んで『総じて好きなものたち』として迎え入れることができる。
オフィスのデスクの足元にあるギターアンプの上に置かれたアイアンマン*1)のフィギュアはそういう意図があるので、なんだか妙だな、と思っても、笑ってスルーしておいてほしい、ということでした。
注釈
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