野球選手から教師へのいきなりの転身
私は野球選手を引退してすぐに(2ヶ月も空けずに)教師になった。23歳で若かったのもあり*1)、生徒を不安がらせないように、わざと老けてみせようと頑張っていた。特に担任を受け持ったクラスの生徒には神経を使った。知ったかぶりしてでも必死に「わからない」と言わないようにしていた。そのために1コマの授業に4時間もかけて、どこをどう質問されても答えられるように毎日ほぼ徹夜で準備をした。1年半ほどそれを続けたが、今でもその時期が一生で一番勉強したと言える*2)。おかげで当時すでに持っていた情報処理の国家試験の内容には相当詳しくなった(自身が取ったのは高校生のときだったので、それから6年も経っていれば、そりゃ何にも覚えてないようなもんだ。当然、教えるにあたって猛烈な再勉強をした)。
学生の就職にコミットするラ○ザップのような学校だったので、就職支援の一貫として、面接指導や履歴書添削、就職先の企業訪問なども行った。遅刻や欠席が出始めた学生には自宅に電話することもしていた。親御さんと直接話すこともあった。一緒に働いた先生方々は皆、素晴らしい人たちばかりだった。個性的な面白い人たちばかりだったが、まさに人格者の集まりと言えるような環境で、今思い返してもあの2年間のあの状況は恵まれていたなと思う。
1月あたりに「もう1クラス増やす」と(4月には入学式が始まるという逼迫した状況であるのにも関わらず)、雲の上の上層部の方々が決めたらしく、「こりゃやばい」と急遽求人を出して、そこに渡りに船と私が来たわけで、なんだかちょっとした救世主的な感じだったのかもしれない。ということで色々ハードルが下がっていたのもあっただろう。とりあえず「勉強面はとにかく、その生き様から得たものを学生に伝えてやってくれ」と言われた記憶はある。たぶん全く期待されていなかったのだろう。でもそれが良かったのかもしれない。元野球選手なんて普通、すぐには使い物にならないと思われても仕方ないのに、それでも最悪イロモン扱いであったとしても居場所を与えてくれたのはありがたかった。
本当に価値の高い知識は大抵すぐには役に立たない
言われて、ちょっとヒヤリと凍りつく質問ランキング*3)の上位に常にある、
「その知識ってこの先、生きていて何の役に立つんですか?」
という質問。教師だった当時は必死になって、その質問に答えようとした。ときにはそうした質問をさせないように、威圧したり、言いにくい雰囲気を作ってみたり、などと小賢しい真似をしたこともあった。そしてその後教師を辞めてからも、この質問は常に気になっていて私を悩ませ続けたが、今ならこう考える。
今なら、この質問を受けた時点でその学習方法は失敗だ、と判断する。なぜなら、その質問を投げた生徒がその時点でちゃんと納得できる唯一の答えは「学力テストや受験で点を取るのに必要になるよ」しかないからである。教師の誰もが考えて答えようとするであろう、それ以外のまさに『教師が好む核心に迫った良い答え』は、その質問を投げてきた学生にはその時点では理解できない・イメージできないのだ。なのでその『教師にとって良い答え』は記憶にも残らない。考えるべきは、その質問をした学生は、ただその学習方法に批判的になっているのであって、質問の答えを求めているわけではないのである。ときに、教師がそれに答えられないことを知って質問しているのだ。
君の『世界』は変わったか?
人は、学習によって世界に対する解釈を変えていく。本来 学習とは、その学習者の世界の見方を変える効果があるはずなのである。なので、学習によって得た知識・概念で、『世界の見方が変わる/世界の解釈が変わる』という体験をさせて、「学習そのものが楽しい」と思わせることに多くの労力を割いた方がいい。そして実際に『世界の見方が変わる/世界の解釈が変わる』という体験を積み重ねた先に、『教師にとっての良い答え』を彼ら自身が答えるようになるのだと、私は期待している。
よくその対象例として挙がるのが数学である。「数学なんて将来なんの役に立つんですか?」と質問してくる学生は、そもそも数学の学習そのものが好きではないのだ。もし体育が好きな学生であれば「体育なんてこんなもの将来何の役に立つんだ」と教師に質問する必要はない。体育自体が楽しいからである。体育では学生の世界の解釈は変わらないかもしれないが、数学の学習によって学生の世界の解釈が変わったのであれば、世界の解釈が変わったこと自体を楽しく感じ、それによって数学の学習に興味を持つはずである。
知的好奇心・知識欲とはまさしく『世界を見る視点が豊富になり、この世界に対する解釈がより奥深いものに変わることによる気持ち良さ』の追求なのであり、そしてこれは多かれ少なかれ人には生来備わっているものである。
「なぜ数学を学ぶのか?」についての回答例
もし「なぜ数学を学ぶ必要があるのか?」と聞かれたとした場合の私なりの回答例を考えてみた。
「数学とは”モデル”であって私たちを取り巻く世界に対する解釈の表現であり、その解釈を効率よく正確に無矛盾で他者と共有するために人間が生み出したものである。数の学問ではない。計算することが目的の学問でもない。
なので世界を奥深く解釈するようなことはしたくない、世界を奥深く解釈した他者とそれらの解釈を共有し自身の世界への解釈をより奥深いものに変えるようなことはしたくない、というのであれば数学は無用でしょう。しかし一度世界の解釈が変わる体験をしてしまったら最後、解釈が変わる以前の自分には戻れない、以前の視点を追憶することすら難しい。
”なぜ今その数学のようなものを学ぶ必要があるのか”という問いではなく、”今この数学のようなものを学んだのに、なぜ自分の世界への解釈が変わらないのだろうか”、と問うて欲しい」
質問は『問いという形式』を利用した意思表示でもある
今は様々なことを質問される。そのことは大変有難いし、今ならその有り難みをちゃんと理解している。教師時代を振り返って、当時は学生に質問をさせないように仕向けていたことを恥じる。しかしそれは何も私に限ったことではないらしい。なぜならセミナーで社会人の方々相手に話をさせていただいても最初は誰も質問してこない、ということから察するに、どこの学校教育の現場でも質問はさせない雰囲気があるんだな、と感じるからである。だから意地悪かもしれないが、私がする面接では、第一声いきなり(互いに自己紹介もないままに)「何か質問はありますか?」と聞くのである。