なぜあなたの思いは伝わらないのか 〜就職・営業・恋愛、人間関係における対立を超えるために〜

人は、自分でも伝えたいことがわかっていないものである

朝起きて、真っ先にノートを開く。そして頭に思い浮かんだことを一気に書き込んでいく。なんでもいい。テーマも決めずに、思いつくままに書く。同じことばかり書いてしまっていることもあるが、そういったこともとりあえずはOKとして書き連ねていく。落書きのようになってしまってもいい。直前まで見ていた夢を思い出して書くこともあれば、とっくの昔に忘れてしまっていたことを急に思い出して書くこともある。一応、毎朝3ページ書くことにしている。ほとんどが役に立たない内容で、その中ではほんの少しだったりするが、今まで考えもしなかったようなアイディアや、忘れてしまっていたかつて重要だったことなど、思いがけないアイディアに出会うこともある。まったく役に立たない内容の日もある。大抵は日々の不安や心配事などが真っ先に思いつくので、不安に思うことまみれになるのだが、それでも3ページに渡って書かれた不安感の数々を見れば、「今こんなことが不安なんだな」と思ったり、後から読み返した際に、当時不安に思っていたことを振り返ることができる。とにかく何でもいいから書く。書く。書く。

書いていると、不安感も少し和らいでくる。この不安感を客観視できるようになるので、ではどうすればこの不安を解決できるのか、と前向きになる余裕が生まれてくる。不安感とは、その原因や解決策が見出せない漠然とした状態が生み出す感情である。なので、何に不安を抱いているのか、その解決策は何なのか、を突き止めようと歩き出せたならもうすでに不安感は和らぎ出しているはずだ。不安を可視化することで漠然としていたものが徐々に姿を表すようになり、冷静に向き合えるようになる。毎朝ノートに3ページ書く、という習慣は、ストレスのコントロールにも繋がる。常にストレスをなくせるわけではないが、試してみると、心なしか緩和されていくのがわかると思う。そしてここに『日々の気付き』を見つけ出すことができる。

弊社では、毎日行うミーティングがある。というかミーティングや会議は基本的にそれたった1つしかない。日々の『気付き』を共有し、その気付きに対して質問をし掘り下げて議論を展開するフィードバックを実践している。10歳以上も年齢の離れた社員も含めたミーティングであるが、各々が気付いたそれぞれの人の思考のクセを教え合うだけでも、なかなか有益である。思考のクセは口癖にも出る。いや口癖が思考のクセを作っているとも言える。両者は切り離せない。まずはそれに気づくこと・知ること、そしてそれらが発現した瞬間に他者からの指摘なしに自覚できるようになると、大きな力となる。普通はなかなかできない。自己修正する能力の向上に繋がる。

こうした場で、はっきりとわかるのは、伝えるのがうまい人と下手な人の違いである。そしてその差は「なぜあなたはそれをするのか?」に対する答えに現れる。伝えるのが上手い人は「それをするのが好きだからです」と答え、伝えるのが下手な人は「それをするべきだからです」と答える。さて、一体どこが違うのだろうか?

相手の気持ちを動かすことよりも、自分の気分が良くなることに夢中になるという落とし穴にハマる

ゴミの分別をせずにゴミ箱に入れた恋人を見た瞬間、あなたはどう語りかけるだろうか?

「リサイクル可能な資源を無駄にしてしまう。これではリサイクルできない。分別して捨てよう」
「最低限のマナーとしてゴミの分別はするべきだ」
「こうして無関心な皆んなが少しづつ環境を悪化させて、巡り巡って自分たちに返ってくる」

上記のどの言葉も相手の心を行動したい気持ちへと動かすことはないだろう。むしろ反発を招くだろう。しぶしぶ分別をする可能性もあるかもしれないが、どうせなら何も言わずに黙ってあなたがゴミ箱に手を突っ込んで、再分別した方がまだマシかもしれない。しかしそれはそれで、あなたのいないところで恋人はずっとゴミを分別せずに捨て続けるだろう。相手の気持ちが動かないからだ。『行動したい』という気持ちが相手に生まれない限り、問題は解決しないのだ。

この場合、本当の原因は相手なのではない。エサに食いついて自ら落とし穴にハマってしまったあなたに原因があるのだ。あなたは相手の気持ちを動かすことよりも、「自分は正しいことを言っている」という”誘惑”に食いついてしまった。そしてそのエサに食いついたあなたは、そのエサによって自分が気持ちよくなるという誘惑に屈し、落とし穴にハマってしまったのである。こうして会話は行き詰まる。対立は解消されず、状況は好転しない。相手の不道徳さを責めたくなるその気持ちの中に、エサが潜んでいる。悪いのは相手ではない。本当の原因は、相手に接するあなたの態度にあるのだ。こうしたエサは私たちの心の中にある。そして、このエサは非常に厄介な誘惑なのである。

エサ1:正しい自分でありたい

まずもっとも多くの人がハマる落とし穴に仕掛けられたエサが『正しさ』である。私たちは生来、正しいことをしたい、という欲求があり、そしてそれらは自らの行動を正しい方向に向けようとする。ここでじっくり考えてもらいたい。あなたは本当に、それを「正しいからするべき」なのだろうか?あるいは「正しいことをしたい」からするのだろうか?この違いは大きい。もし「正しいからするべき」と考えているのであれば、それはあなたよりももっと大きな大義や社会通念、道徳などの威を借りて、あなた自身はその責任から逃れている。あなたはあなた自身を守ったまま、相手に接していることになる。だから選ぶ言葉が、俗に言う『上から目線』になってしまうのである。「正しいからするべき」と考えるあなたの言葉は正面から反駁されることはない。なぜならそれは「正しい」からだ。しかしそれはあなたの意見ではない。あなたは責任を追っていない。大義に隠れた臆病者からの言葉は、意見を異にする相手の心に刺さらない。「私は『正しいことをしたい』からあなたに意見します」と言い換えてみるとどうだろうか?一気に責任を負った気がしないだろうか?武器を捨て、防具も脱ぎ捨てて、すっかり丸腰になった気がしないだろうか?その丸腰のあなたが選ぶ言葉は、もっと慎重になり相手のことを思いやったものとなり、自分のエゴで相手に意見している、と謙虚になるはずである。そうなれば相手の心に刺さる可能性は高まる。

正しいことをしたいからしている、と自分の意見に責任を負ってみよう。

「僕はゴミを分別することが好きなんだ。だからといって別に分別をしない人を嫌ったりはしないよ。ただ、昔あることを知って、それからリサイクルに興味をもって取り組んでいるんだ。ゴミの分別って慣れないうちは面倒だよね。僕も最初は分別すること自体を忘れてしまったりしてなかなか最初からはうまくできていなかった。だからゴミを捨てる時に聞いてくれればいつでも教えるよ」

あなたの態度が変われば、あなたの意見を聞いて恋人がゴミの分別に取り組んでくれる可能性は高まるだろう。

エサ2:問題中心主義

「これは間違っている。なぜこんなやり方をしているのか」
「この国はあまりに多くの問題を抱えている。誰がこんな国にした」

これは、『問題自体を明確な敵とみなせる』という誘惑である。怒りの矛先を『設定した問題』に向けることができる。それによって、物事の筋道を間違えなくてすみ、自らの一貫性を保つことが容易になる。この世界は複雑であるが、問題を設定してその問題自体に焦点を絞れば、思考をシンプルに保つことができる。私たち人間は一貫していたいと思う一方で、実際には一貫してなどいない。矛盾しているが、そういうものなのだ。矛盾した考えを持ち、この複雑な世界を生きている。しかし問題中心主義では、その矛盾を認めない。矛盾を切り捨てるのである。いわば現実を直視せずに、問題を狭く規定して、未来よりも過去に焦点を当てる。問題の過去を分析をしているつもりになり満足するのだ。未来をどのように創造するのかについて考えたりしない。革新的な手法を試すこともない。物事の長所や他人の資質を見ることもない。自分が正しく、周りが間違っているという感覚は、確かに気持ち良い。しかしそのエサに食いついてしまった場合、落とし穴にハマってしまう。似たような思考を持っている仲間と愚痴り合う場にはなるかもしれないが、決して問題は解決されない。問題を解決するために必要な多くの仲間を巻き込むことはできない。問題中心主義のあなたの言葉では、その問題意識をまだ持たない相手の心を動かすことはない。世界はこうあるべきだ、というビジョンを持っていたとしても、それを実現したり創造する当事者意識や責任を放棄しているのでは、誰の心にも刺さらない。

エサ3:心理的安全圏にいること

本質的な問題箇所でもあるが会話に持ち出すと衝突するかもしれない話題をあえて避けて、会話をする場合がある。大切な問題への協力を求めたのに、あっさりと断られ拒否されたことを思い出して欲しい。思い返しただけでも逃げ出したくなるだろう。安全圏にとどまっていた方が心地いい。安全圏にとどまる一番の方法は、行動を起こしても成功しない理由を正当化することである。「自分は正しい」「自分は善いことをしている」という態度を取ってしまいがちなのは、その方が安全でいられるからである。しかし、それは単に衝突を恐れて何もしないことを意味する。心理的安全圏にいる人の言葉も、誰の心にも刺さらない。ぜいぜい同じ安全圏の中にいる問題を解決しない仲間たちと無駄な時間を過ごすことくらいしかできない。

外発的動機か内発的動機か

自分の目標を、自分の経験や価値観や感情に関するもの(内発的動機)ではなく、抽象的な問題や論点のようにみなしていないだろうか?その行動をとるメリットや代償(外発的動機)のように言い換えていないだろうか?本当は、内発的動機によってあなたが「したい!」と感情が高ぶるものであるはずを、事実だけを伝えて、批判を回避していないだろうか?内発的動機とは、サッカーファンに、「なぜサッカーの試合を観に行くのですか?」と聞いた時の答えが代表的だ。彼らはただ「サッカーが好きだから」「だって面白いから」と言うだろう。内発的動機は表現はシンプルだが、そこには感情がこもっている。それを、サッカーの世界の競技人口を持ち出して、サッカーがどれほど多くの世界中の人々から注目されているかについて語って「サッカーに詳しいと儲かるぞ」と言ったところで、サッカーの抱える問題点を解決するために協力しようとは思ってもらえないだろう。せいぜい「儲けのタネが一つ減るんだな」くらいにしか思ってもらえないだろう。そう、上記で紹介した3つのエサはどれもが外発的動機に逃げてしまった例である。なぜあなたがこの問題に取り組んでいるのか、そしてそれに対してなぜ相手に協力して欲しいのか、についてあなたの内発的動機から語る態度が必要なのである。「正しいから」「善いことだから」ではなく、あなたの個人的な経験や感情を語るのだ。そして相手の内発的動機を尊重し、互いの内発的動機を共有し、心を通わせるのだ。

過去を見ず、未来を見る

内発的動機を共有する際に、ある種の緊張関係が生まれるような感覚に陥ることがある。自分の個人的な経験や価値観をさらけ出す上に、それに対して拒絶されるかもしれない、という不安が、両者を包むからである。しかしそれも最初のほんの少しであることを経験すると、対立を超えて相手と共に未来を考えられるようになる。過去のみに縛られてはならない。これから招きたい未来に互いに集中するのだ。未来に焦点を当てると、過去の自分の意見を変えることも可能となる。過去に主張した意見を覆す必要があっても、よりよい未来のためにと考えて、意見を変えることができるようになる。よりよい未来のために過去の自分の意見を変えたのだ。ここでまた、「一貫した自分」という心理的安全圏にいたいというエサに食いついて落とし穴にハマってはいけない。過去の自分の意見が間違っていたことを認めればいい。

偉そうなことを書きながら、わたしもかつてはここで紹介したようなエサに食いついて落とし穴にハマることが多かった。そして今もたまにハマってしまったりする。これは私自身にあてた備忘でもあり、また社員に向けたアドバイスでもあり、そしてまだ見ぬ未来の仲間に向けたメッセージでもある。対立を恐れてはいけない。私たちの目的は勝つことではない、学ぶことであり、未来を創造することである。その可能性を開くのは、会話である。さあ会話をしよう。

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