質問のしかたで答えが変わる
もし今私があなたに「普段の生活で不満はありますか?」と尋ねれば、「満足していますか?」と尋ねたときよりも、不満の証が多く見つかるはずだ。
カナダ人に対して行った実験で、あるグループには「社会生活に満足していますか?」と質問し、他方のグループには「社会生活に不満はありますか」と質問した。すると「不満があるか」と尋ねられたグループでの「不満がある」と答えた人は、「満足しているか」と尋ねられたグループでの「不満がある」と答えた人の4倍近くも多かった。これは、「不満があるか」と質問された人たちは、頭の中で、不満の種を思い出しやすくなるということである。
もしあなたに誰が質問をしてきたら、質問文自体が何かに注目させてしまうような形式になっていないか、疑ってかかろう。もしそのような形式の質問をされていることに気づいたら、反対からみた質問を心の中でつぶやいてみよう。例えば「このブランドのことがどれくらい好きですか?」と聞かれたならば、(あるいはどのくらい嫌いですか?)と心の中で文を追加して反対側にも注目させるのである。
そしてこれは、人が物事の原因を理解しようと試みるときにも作用してくる。
作られる『原因』
なぜ私たちは注意の奪われ方によって質問の捉え方が変わってしまうのか?それは、私たちは注目したものを重要であるとみなす傾向があるからである。注目したものの重要性を高く見積もってしまうのである。そしてその注目した要素を物事の原因に割り当ててしまう。複数の選択肢が並んでいたとしても、注目をしてしまった選択肢に対しては、はじめから一定の重みを与えてしまう。人は大抵、周囲にある『本当の原因らしきもの』に対して特別な注意を向けるものであり、そうした注意を何らかの要素に向けると、その要素を原因だと考えてしまう。
多くの学問でもこうした間違いを犯してきた。
経済学において『支払い金額』というのは非常に目立つ要素である。「〇〇してくれたら××円支払う」という提示が行われた場合、支払いに刺激されて行為が生じたと推測しがちであるが、何か他のもっと見えにくい要素が原因になっている可能性については見逃されてしまう。経済学者にとっては、金銭的側面に注目して分析を行うことに慣れているため、こうした思い込みを抱く癖がある。
ある研究で、列に並んでいる人に「お金を払うから前に入れてほしい」と持ちかけた場合の金額の多さと承諾率の関係を導き出そうというものがあった。払う金額を増やせば、列に入れてくれる人が増えるだろうと、経済学者は考えたのである。そして結果もその通りであった*1)。金銭面の条件が良くなれば取引に応じやすくなる、と誰でもそう考えるであろう。金額というものは目立つ。ゆえに金額の多寡が得られた効果の原因とみなされた。しかし事実はもっと妙であった。
ほとんど誰も謝礼のお金を受け取らなかったのである。金額を増やすと列に割り込ませてくれる割合は高まるものの、謝礼を受け取る割合は変わらなかった。なぜだろうか?原因は『お金が欲しかった』からではないのか?そして被験者にヒアリングをしたところ、真相が判明した。
被験者は、お金が欲しかったのではなく、『それほどのお金を支払ってでも割り込みたい、何か切実なる理由があるのでは?』と状況から解釈し、『困っている人は助けなければいけない』という義務感から割り込みを承諾したのである。「お金を払ってでも割り込みたいこの人には、前に早く行かなければならない何かよほどの理由があるに違いない」と思ったのである。
金銭のように目立つ要素は、より重要そうに見えるだけではなく、より原因らしく見えもする。これを悪用すると、わざと間違った要素に注目を集めておくだけで、その要素があたかも真の原因かのように扱われやすくなる。そう、原因は作れてしまうのである。
広報によって目的が果たせてしまうという誘惑
今日では、様々なものを管理して数値化して比較することが求められる。成果をアピールするためにも、その成果を管理し測定することが必要だ、という考え方である。しかしここに落とし穴がある。成果を管理し測定すればするほど、結果的には、成果を測定した数値が比較される、のであって、成果そのものが比較されるわけではない、ということである。成果そのものではなく、成果の表象が比較されるのである。管理すればするほど、成果を求めれば求めるほど、実際の仕事内容は『本来求めていた目標の達成』ではなく、『それらしき表象』を生み出し操作することに変容してしまう。これは大企業や地方自治体などに起こりがちな問題である。提供するサービスの向上よりも、それらのサービスがきちんと表象されていることの保証により多くの労力が費やされてしまう。組織内での各人の業務内容を分析してみると、顧客を満足させるためのサービスの質の向上に投じる労力よりも、顧客満足度が上がる仕組みを用いていることを他者に対して証明することに対する労力の方が上回ってしまうのである。こうした優先順位の逆転は簡単に起こる。それこそ大企業や地方自治体に限ったことではなく、あらゆる場面で起こり得る。実際の成功よりも成功の表象に価値を認めてしまう、ということが起こってしまうのだ。
1931年から1933年に及ぶソ連(当時)でのスターリンによる白海・バルト海運河計画*2)では、分かりやすい進展の象徴をつくることに懸命になってしまい、結果的に実際の進展を遅延させてしまった*3)。スターリンが成果としてアピールしたかったのは、共産主義国家であるソ連は、アメリカ・ヨーロッパの資本主義国家よりもずっと効率的に社会を構築することができる、というものであり、資本主義国家よりもずっと少ない資金・時間・設備で、運河を技術者や労働者に開発させようとした。そして結果的に、貨物船の安全運行に耐え得る水準にはならず、せいぜい観光船の通過に持ちこたえられる程度のものになってしまった。しかしそれら観光船には運河計画の栄光を讃えるソ連と外国の記者で溢れていた。成功を広報することに労力を費やしたのである*4)。そして運河は広報としては大成功だったが、もし広報活動に費やされた労力を実際の運河開発に回していたなら、犠牲者の数はもっと少なくなったであろう(強制労働で10万人が死亡)。
全てが広報に消える
株式市場で価値を生み出すのは、ある企業が「実際に何をしているのか」ということよりも、その企業がどのような実績を示すかに対する見通しや意見によるところが大きい。この現代社会は、もはや価値は広報によって作られるという誘惑に無意識的にも冒されてしまっている。
その誘惑ゆえに、全ては広報に消えていくのだ。