『⚠️クソどうでもいい仕事』が現代社会を蝕む – ブルシットジョブBullshit jobsの真実

「無意味な仕事」の蔓延 – 現代社会が抱える深刻な病理

私たちは今、歴史上かつてないほど豊かで便利な時代を生きている。科学技術の発展により、かつては夢物語だったことが次々と現実のものとなり、生産性は飛躍的に向上した。にもかかわらず、多くの人々が自分の仕事に意味を見出せず、虚無感に苛まれている。この奇妙な矛盾は、現代社会が抱える深刻な病理を示唆している。

人類学者デイヴィッド・グレーバーが2013年に発表した論文「On the Phenomenon of Bullshit Jobs」は、この問題に鋭い光を当てた。グレーバーは、現代社会に蔓延する「無意味な仕事」(ブルシットジョブ)の存在を指摘し、その社会的・心理的影響について考察を展開した。彼の主張は多くの人々の共感を呼び、激しい議論を巻き起こした。

グレーバーによれば、「無意味な仕事」とは「完全に無意味で、不必要で、有害ですらある有給の仕事」と定義される。驚くべきことに、先進国の労働者の相当数が、自分の仕事をこのように感じているという。想像してみてほしい。毎日何百万もの人々が、自分の仕事が社会にとって何の意味も持たないと感じながら働いているのだ。これは単なる不満や愚痴の類ではない。私たち人間の尊厳と生きる意味に関わる深刻な問題なのだ。

グレーバーは、無意味な仕事の特徴として以下の点を挙げている:

  1. 仕事の存在意義を従事者自身が説明できない
  2. その仕事がなくなっても社会に何の影響もない
  3. 仕事の過程で何も生産されず、価値も創造しない
  4. 仕事の存在自体が組織や社会の非効率を示している

これらの特徴に心当たりがある人は少なくないだろう。もしかすると、あなた自身もすでに「ブルシットジョブ」に侵されているかもしれない。

具体例を挙げてみよう。大企業で働く中間管理職のジョンを想像してみてほしい。彼の主な仕事は、上司からの指示を部下に伝え、部下の進捗状況を上司に報告することだ。しかし、ジョンはしばしば自問自答する。「私がいなくても、上司と部下が直接コミュニケーションを取れば済むのではないか?」と。

あるいは、PR専門家のメアリーはどうだろう。彼女の仕事は会社の良いイメージづくりだが、実際には製品やサービスの改善には全く関与せず、ただ見かけを取り繕うことに終始している。メアリーは時々、自分が本当に社会に価値を提供しているのか疑問に思う。

保険会社のテレマーケターとして働くトムは、毎日見ず知らずの人々に電話をかけ、彼らが必要としていない保険商品を売り込む。ほとんどの人が迷惑そうな反応を示し、成約率は極めて低い。トムは「自分の仕事は人々の時間を無駄にしているだけではないか」と日々感じている。

これらの例は、現代社会に蔓延する「無意味な仕事」の一端を示している。重要なのは、これらの仕事に従事している人々が、自分の仕事の意味や価値を感じられていないという点だ。彼らは社会に貢献したい、意味のある仕事をしたいと思っているにもかかわらず、現実には虚無感や無力感に苛まれているのだ。

この問題が個人に与える心理的影響は深刻だ。毎日自分の仕事が何の意味もないと感じながら働くことは、単なる退屈や不満ではなく、深い精神的苦痛をもたらす。これは後々、自分の人生観や職業観にも大きな影響を与えることになる。

具体的には、以下のような悪影響が考えられる:

  1. 自尊心の低下:自分は社会の役に立っていない、自分の存在に意味がないという思いは、人間の根本的な自己価値観を揺るがす。
  2. 罪悪感:自分は社会の資源を無駄遣いしている、もっと意味のある仕事をしている人々を裏切っているという罪悪感に苛まれる。
  3. 怒りや憤り:なぜこんな無意味な仕事をしなければならないのかという怒りや、システムや仕組みに対する憤りを感じる。
  4. 無力感と諦め:どうせ何も変わらない、自分には何もできないという無力感や諦めの気持ちに襲われる。
  5. 虚無感:人生の意味とは何か、なぜ生きているのかといった実存的な問いに悩まされる。

これらのネガティブな影響は、単に仕事の時間だけでなく、個人の人生全体に影響を及ぼしかねない。仕事での虚無感は、私生活での幸福感や人間関係にも悪影響を与えるからだ。

ある無意味な仕事に従事する30代の男性は、こう語っている。「毎日意味のない書類作成と会議の繰り返し。家に帰っても、今日も何も成し遂げなかったという虚しさが消えない。休日も、また月曜日が来ると思うと憂鬱で、人生の喜びをだんだんと感じられなくなってきている。」この告白は、無意味な仕事が個人の人生全体に及ぼす深刻な影響を如実に示している。

しかし、この問題は個人レベルの問題にとどまらない。無意味な仕事の蔓延は、社会全体にも大きな影響を及ぼしている。

まず、経済的損失が挙げられる。有能な人材が無意味な仕事に従事することは、社会全体の生産性を低下させる。本来であれば革新的なアイディアや価値ある製品・サービスを生み出せたかもしれない才能が、埋没し、無駄に消費されていくのだ。

次に、社会の停滞がある。無意味な仕事に従事する人々は、社会の改善や進歩に貢献する意欲を失う。これは社会全体のイノベーションや発展を妨げる要因となる。

さらに、社会的無関心も引き起こす。自分の仕事に意味を見いだせないと、社会や政治にも無関心になりがちだ。これは民主主義の健全な機能を脅かす可能性がある。

精神衛生の悪化も見逃せない。無意味な仕事によるストレスやうつ状態の増加は、社会全体の精神衛生を悪化させ、医療費の増大にもつながる。

最後に、環境への負荷も考慮する必要がある。無意味な仕事は往々にして不要な資源消費や環境負荷を引き起こす。これは持続可能な社会の実現を妨げる要因になり得る。

このように、無意味な仕事は個人の不満や不幸という範疇を超えて、社会全体の健全性と発展に関わる重要な課題なのだ。

では、なぜこのような無意味な仕事が増加しているのだろうか。一見すると、効率と生産性を重視する現代社会において、このような非効率な仕事が蔓延しているのは矛盾しているように思える。しかし、この現象の背景には複雑な要因が絡み合っている。

まず、テクノロジーの進歩と労働の変質について考えてみよう。20世紀前半、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、テクノロジーの進歩によって労働時間が大幅に短縮され、21世紀には週15時間労働が一般的になると予想した。しかし、現実には逆の現象が起こっている。なぜだろうか。

確かに、テクノロジーの進歩により多くの単純作業が自動化された。工場での組み立て作業やデータ入力など、かつて人間が行っていた仕事の多くが、機械やコンピュータによって置き換わっていった。しかし皮肉なことに、この自動化は新たな形の仕事を生み出してしまった。例えば、自動化されたシステムを監視・管理する仕事や、機械では対応できない例外的なケースを処理する仕事などだ。

ある工場労働者は次のように語っている。「昔は自分の手で製品を組み立てていました。当時は大変でしたが、日々の成果が目に見えて分かりました。今は機械が全てやってくれます。私の仕事はただその機械を見守ることです。何か問題が起きない限り、何もすることはありません。確かに楽にはなりましたが、以前のような達成感はなく、自分の時間の多くが何もしない無駄な仕事に費やされている気がします。」

これは、テクノロジーの進歩が必ずしも仕事の質を向上させるわけではないことを示す一例だ。

ITの普及も、見せかけの仕事を増やす一因となっている。コンピューターとインターネットの普及によって、私たちの働き方は大きく変わった。しかし、それは必ずしもポジティブな変化ばかりではない。

例えば、メール処理に費やす時間を考えてみよう。ある調査によると、オフィスワーカーは1日平均2.5時間をメールの処理に費やしているという。その多くが実質的な価値を生まないCC(カーボンコピー)や「全員に返信」の形をとったメールだ。

あるオフィスワーカーはこう嘆いている。「毎日数百通のメールが届きます。その大半は自分に直接関係のない内容です。でも見落としたりでもしたら怒られるかもしれないので、とりあえずは全て目を通さなければなりません。本当に重要な仕事をする時間がどんどん削られていってしまいます。」

さらに、コロナ禍によるリモートワークの普及も、労働時間の延長という問題を引き起こしている。スマートフォンの普及により、私たちは24時間365日仕事モードになることができる。その気になれば電車の中でもメールをチェックでき、休日でも仕事の連絡に対応できる。これは逆に、常に仕事に対応することを期待されてしまうという問題を生んでいる。

ある営業マンは次のように語っている。「スマートフォンのおかげでいつでもどこでも仕事ができるようになりました。しかしそれは同時に、いつでもどこでも仕事をしなければならないというプレッシャーが自分に常に降りかかっているということでもあります。休日でも常に上司や顧客からの連絡を気にしなければならず、本当の意味でのリラックス、休息を取ることができなくなってしまいました。」

このように、テクノロジーの進歩は私たちの労働を楽にさせる一面もあるが、新たな形の無意味な仕事を生み出し、結果的には労働時間をむしろ延長させ、労働環境を悪化させている側面もある。

では、なぜこのようなことが起こっているのか。その社会的なメカニズムについても考えてみよう。

無意味な仕事の増加は、現代資本主義システムの矛盾を如実に表している。資本主義は本来、市場原理に基づいて非効率的な要素を淘汰し、生産性を向上させるはずのシステムだ。しかし現実には、明らかに非効率で無意味な仕事が温存され、さらには増加している。なぜこのような矛盾が生じるのだろうか。

まず、雇用創出の必要性が挙げられる。資本主義経済にとって雇用の創出は極めて重要だ。人々が仕事を持ち収入を得ることで消費が促進され、経済が回るからだ。しかし、テクノロジーの進歩によりより多くの仕事が自動化される中、新たな雇用を生み出す必要性が生じている。その結果、社会的な価値は低くてもとにかく仕事を作り出すという状況が生まれている。

ある政策立案者は匿名でこう語る。「失業率の上昇は政治的に大きな問題になります。そのため、時には生産性や効率性を度外視してでも雇用を創出する政策をやらざるを得ないのです。」

次に、組織の肥大化という問題がある。多くの大企業や官公庁では、組織の規模や従業員数がその組織の重要性や価値を示す指標として用いられることがある。そのため、実際の仕事量にかかわらず、組織を拡大し従業員数を増やそうとする傾向がある。

ある大企業の人事部長は次のように述べている。「正直に言えば、我が社の従業員の20%程度は明らかに過剰です。しかし、従業員数を減らすと対外的な評価が下がり、株価にも悪影響を与える可能性があります。そのため、余剰人員を抱えたまま経営を続けているというのが実態です。」

この告白は、組織の肥大化が無意味な仕事を生み出す一因となっていることを示唆している。

さらに、短期的利益の追求も大きな要因だ。現代の資本主義では、多くの企業が四半期ごとの業績や株価に過度に注目している。その結果、長期的効率性や生産性よりも、短期的な数字の上昇を重視する傾向がある。これが無意味な仕事を生み出す一因となっている。

例えば、実質的な価値を生まない広告のキャンペーンや、形だけのコンサルティング業務などが、短期的な売上や利益を押し上げるためだけに用いられることがある。

あるマーケティング担当者はこう告白している。「私たちの仕事の大半は、実際には顧客にとって何の価値も生み出していません。しかしそれでも毎年巨額の予算が投じられます。なぜなら、マーケティング活動を行っているという事実自体が、投資家や株主に対するアピールになるからです。」

最後に、金融資本主義の影響も見逃せない。現代の経済システムでは、実体経済よりも金融取引が重視される傾向がある。これが無意味な仕事を増加させる一因になっている。金融市場での取引や投機的な活動は、実質的な価値を生み出さないにもかかわらず、莫大な利益を生み出す可能性がある。その結果、多くの優秀な人材が金融セクターに流れ、無意味な仕事に従事することになる。

ある元投資銀行員はこう語っている。「私は毎日コンピューターの画面を見つめ、数字を追いかけていました。億単位のお金を動かしていましたが、それが実際の経済にどのような影響を与えているのか、全く実感がありませんでした。給料は非常に高かったのですが、社会に何の貢献もしていないという罪悪感に苛まれていました。」

これらの要因が複雑に絡み合うことによって、資本主義システムの中でも無意味な仕事(ブルシットジョブ)が増殖していく構造が生み出されているのだ。

しかし、この問題には政治的・社会的要因も大きく影響している。これらについても詳しく見ていこう。

まず、失業率の抑制という政治的要因がある。政府にとって失業率の抑制は最重要課題の一つだ。高い失業率は社会の不安定化や政権への不満につながるからだ。そのため、仕事の質よりも量の雇用創出が重視されることがある。

ある政治家はこのように語っている。「失業率が上昇すると、必ず次の選挙で議席を失います。なので、たとえ効率が悪くても、とにかく雇用を生み出す政策を打ち出さざるを得ないのです。」

次に、社会の管理統制という側面も無視できない。グレーバーはより過激な見方を示している。彼によれば、無意味な仕事の蔓延は人々を忙しくさせ、社会変革の余裕を奪うための統治戦略だという。忙しく疲れた人々は反乱を起こしにくいというのがその論理だ。

実際、長時間労働に追われると、人々は社会問題について深く考えたり、政治に参加したりする時間と精力を失いがちになる。社会を徹底的に管理して統制していけば、社会変革を行うような気分にならず、人々はバラバラに分断されて団結するような余力もなくなる。

この見方は一見陰謀論的に聞こえるかもしれないが、無意味な仕事の蔓延が結果的にそのような効果をもたらしている可能性は否定できない。

さらに、社会規範としての勤勉さという要因もある。多くの社会では、勤勉であること、忙しくしていることが美徳とされる傾向がある。この価値観が、必ずしも生産的でない仕事であっても、それに従事することを正当化する要因となってしまうのだ。

ある会社員は次のように語っている。「正直、自分の仕事の大半は無意味だと感じます。しかし、遅くまで残業していると、頑張っているという風に社内では評価されます。早く帰ろうものなら、仕事に熱心でないと思われるんじゃないかという心配があります。」

最後に、階級構造の維持という側面も考慮する必要がある。無意味な仕事に従事する中間層の存在が、社会の安定に寄与しているという見方だ。これらの仕事は労働者同士の分断と対立を促進し、連帯を阻害する効果がある。

例えば、真に社会に必要な仕事(清掃や介護、教育などのいわゆるエッセンシャルワーカー)に従事する人々と、給料は高いけれども社会的価値の低い仕事(金融や広告など)に従事する人々の間に分断が生じやすくなる。

あるNPO職員はこう嘆いている。「私たちは日々、社会の底辺で苦しむ人々を支援する仕事をしています。しかし、その仕事の社会的評価は低く、給料も安いです。一方で、社会にほとんど貢献していないと思われる金融業界の人々が莫大な報酬を得ている。この不公平感が社会の分断を深めていると感じます。」

これらの政治的・社会的要因が、無意味な仕事の存続と増加を後押ししているのだ。

ここまで、無意味な仕事の実態とその増加の背景を見てきた。では、このような仕事の蔓延は私たちの社会にどのような影響を及ぼしているのだろうか。個人レベルから社会全体に至るまで、その影響は深刻かつ広範囲に及ぶ。

まず、個人への影響を詳しく見てみよう。先述の自尊心の低下やストレス、不安の増大に加え、モチベーションの低下も重大な問題だ。自分の仕事に意味を見いだせないことは、モチベーションを著しく低下させる。その結果、仕事への情熱や創造性が失われ、サボタージュや内職などの非生産的行動が増加することもある。

昨今の副業解禁の動きは、このような状況を反映しているとも言える。本業で十分なやりがいや報酬を得られない従業員に対し、副業でその穴埋めを許可するという企業の姿勢は、本質的な問題解決にはなっていない。2時間で終わる仕事を8時間かけてゆっくりこなすよりは、残りの6時間を副業に充てて別の収入を得る方が良いという考え方だ。しかし、これはある種のガス抜きに過ぎず、従業員のストレスや不満、モチベーションの低下という根本的な問題は解決されていない。

さらに深刻なのは、アイデンティティの危機だ。現代社会では、多くの人が仕事を通じて自己を定義している。にもかかわらず、無意味な仕事に従事しているという感覚は、社会における自己の役割や存在意義に対して深刻な疑問を生じさせる。これによって、深刻なアイデンティティの揺らぎを経験し、「いったい自分は何のためにこの社会に存在しているのか」ということすらもわからなくなってしまう。これは強い精神的な負担を強いることになる。

これらの影響は単に仕事の問題だけではない。個人の人生全体に影響を及ぼすのだ。仕事での虚無感が私生活にまで浸透し、人生全体の満足度を低下させてしまう。これは、無意味な仕事が私たちの社会や個人に蔓延している深刻な病理であることを示している。

次に、組織への影響を考えてみよう。まず挙げられるのは、組織全体の生産性低下だ。非効率な業務プロセスによる時間とリソースの浪費は、組織のパフォーマンスを著しく損なう。会社の半分以上の従業員が実質的には何もしていないような状況でも、従業員を解雇することもできず、士気を上げることもできない。人員を減らせば仕事が回らないと脅されてしまうのだ。これは経営者サイドから見ても従業員サイドから見ても、全く生産的で建設的な思考ができなくなってしまう状況だ。

イノベーションの停滞も深刻な問題だ。無意味な仕事に時間とリソースを費やすことで、創造的な思考や挑戦的な取り組みの機会が失われてしまう。これは組織の長期的な競争力を著しく損なう結果となる。

ある大手テクノロジー企業のエンジニアは次のように語っている。「私たちには画期的な製品のアイディアがあります。でもそれを実現するための時間がありません。毎日無意味な会議や報告書作成に追われているのです。このままでは競合他社に追い抜かれるのは時間の問題だと感じています。」

さらに、組織文化の悪化も見逃せない。無意味な仕事が蔓延することで、シニズムや諦めの空気が広がり、見せかけの仕事を正当化する風土が形成されてしまう。このような組織文化は有能な人材の流出を招き、新たな人材の獲得も困難にする。

ある人事担当者はこう告白している。「最近、優秀な若手社員が次々と退職しています。彼らの多くが『この会社では自分の能力を活かせない』と言って去っていきます。一方で、新卒採用でも以前ほど質の高い人材が集まらなくなってきています。会社の評判が落ちているのを肌で感じます。」

実際、最近では官僚になりたがる東大出身者も減っているという。高学歴や有能とされる人でさえ、いわゆる無意味な仕事、ブルシットジョブに嫌悪感を感じ、それらを選ばなくなってきているのだ。

では、社会全体への影響はどうだろうか。まず、経済的損失が挙げられる。有能な人材が無意味な仕事に従事することは、社会全体の生産性を著しく低下させる。本来であれば革新的なアイディアや価値ある製品・サービスを生み出したかもしれない才能が、無駄に消費されてしまうのだ。

ある研究によれば、無意味な仕事による経済損失は、教育や医療への投資額に匹敵するほどの規模だという。これは社会の潜在的な成長機会を大きく損なう、重大な問題だ。

社会の停滞も深刻だ。無意味な仕事に従事する人々は、社会の改善や進歩に貢献する意欲を失う。これは社会全体のイノベーションや発展を妨げる要因となる。会社の中でイノベーションや発展が阻害されるのと同様に、社会全体でも同じことが起こるのだ。

政治的な無関心の増大も看過できない。自分の仕事に意味を見いだせない人々は、社会や政治に対しても無関心になりがちだ。これは民主主義の健全な機能を脅かす。実際、昨今の日本の投票行動を見ても、民主主義の機能不全が顕著になってきている。世界的に見ても、ブルシットジョブが蔓延している先進国では、民主主義がうまく機能しなくなってきている傾向が見られる。本来の国民のための、国民が考えた意思決定になっていないという問題に、多くの国が直面しているのだ。

さらに、精神衛生の悪化も社会全体に影響を及ぼす。無意味な仕事(ブルシットジョブ)に従事する人のストレスやうつ状態の増加は、社会全体の精神衛生を悪化させ、医療費の増大にもつながる。世界保健機関(WHO)の報告によると、うつ病は2030年までに世界の疾病負担の第1位になると予測されている。この予測の背景には、仕事の質の低下や意味の喪失が大きく関わっていると考えられる。

これらの問題に対して、様々な議論が行われている。グレーバーの提唱した「無意味な仕事」の概念に対しても、当然ながら批判が寄せられている。その批判の内容を見ていくことで、この問題の複雑さと奥深さを理解することができるだろう。

まず最も多い批判は、「無意味」という定義が個人の主観に依存しているというものだ。ある人にとっては無意味に思える仕事でも、別の視点から見れば重要な意味を持つ可能性がある、という指摘だ。

あるコンサルタントは次のように反論している。「一見無意味に見える仕事でも、組織全体の中では重要な役割を果たしていることがあり得ます。例えば、中間管理職は組織の潤滑油のような存在です。彼らがいなければ、組織は円滑に機能しません。」

また、市場原理との矛盾を指摘する声もある。完全競争市場では、「無意味な仕事」は淘汰されるはずだという反論だ。市場メカニズムが適切に機能していれば、非効率な仕事は自然に排除されるはずだという主張である。

ある経済学者は次のように述べている。「長期的に見れば、市場は効率的に機能します。無意味な仕事が存在しているように見えるのは、一時的な現象か、あるいは我々の理解が不十分なだけかもしれません。」

雇用の重要性という観点からの批判もある。無意味な仕事でも雇用を創出し、経済を支えているという主張だ。失業の社会的コストと比較した場合、これらの仕事にも一定の価値があるという見方である。

ある政策立案者はこう主張している。「確かに一部の仕事は非効率かもしれません。しかし、それらの仕事は多くの人々に収入をもたらし、消費を支えています。これらの仕事を一気に無くしてしまえば、深刻な経済危機を招く恐れもあるのです。」

技術的必要性という観点からの批判もある。一見無意味に見えるような仕事でも、システムの維持に必要不可欠な場合があるという反論だ。複雑化した現代社会を支えるために、これらの仕事が必要だという主張である。

あるIT企業の幹部はこう説明している。「我々の仕事の多くは、一般の人には無意味に見えるかもしれません。しかし、これらの仕事がなければ、複雑なシステムはダウンしてしまう恐れがあります。無意味に見える仕事の多くが、実は現代社会の見えないインフラのリスクヘッジになっているのです。」

これらの批判や反論は、仕事というものの定義の捉えどころの難しさを示すと同時に、深い議論の必要性を示唆している。

この問題に対する見解は、政治的な立場によっても異なる。左派と右派では、無意味な仕事の問題に対するアプローチが大きく異なるのだ。

左派の論者の多くは、無意味な仕事を資本主義システムの矛盾の表れとして批判する。彼らはこの問題の解決策として、労働時間の短縮やベーシックインカムの導入などを提案している。

ある左派の活動家はこう主張している。「無意味な仕事の蔓延は、資本主義の行き詰まりを示しています。我々は労働のあり方を根本から見直し、すべての人が意味ある活動に従事できる社会を目指すべきです。そのためには、労働時間の大幅な短縮とベーシックインカムの導入が不可欠です。」

しかし、左派の中でも意見が分かれている部分もある。例えば、完全雇用を目指す伝統的な労働運動との矛盾も指摘されている。

ある労働組合のリーダーはこう打ち明けている。「無意味な仕事の削減は必要だと思います。しかし同時に、我々は組合員の雇用を守らなければなりません。この矛盾にどう向き合うべきか、答えがまだ見つからないというのが現状です。」

一方、右派の論者の多くは、市場原理に任せれば無意味な仕事は自然に淘汰されるという立場を取る。これはネオリベラリズム(新自由主義)の考え方が強い場合に見られる傾向だ。彼らは規制緩和や民営化による効率化を解決策として提案している。

ある保守系のシンクタンクの研究員はこう述べている。「無意味な仕事が存在するのは、政府の過度な介入や規制のせいです。市場の自由な競争を阻害する要因をすべて取り除いてしまえば、効率化が進み、無意味な仕事は自然と淘汰されるはずです。」

しかし、右派の中でも雇用創出を重視する保守派との矛盾も指摘されている。小さな政府を目指すなら無意味な仕事を減らすべきだが、それは失業の増加につながる可能性がある。

ある保守派の政治家はこのジレンマを語っている。「私は小さな政府と市場原理を信じています。しかし同時に、雇用の確保も重要な政策課題です。無意味な仕事を一気に無くせば、失業率が跳ね上がり、社会不安を招くでしょう。この矛盾にどう対処するべきか、まだ答えは見つけ出せていません。」

興味深いことに、無意味な仕事(ブルシットジョブ)の問題は、左右両派の伝統的な立場に再考を迫る側面がある。左派的な面から見ても問題があり、右派的な面から見ても問題がある。そして、それらは真っ向から対立して矛盾を起こす。左派的な意見からも矛盾を起こし、右派的な意見からも矛盾を起こす。この問題は既存の政治的枠組みを超えた、新しい思考を要求しているのかもしれない。

では、私たちはこの無意味な仕事から脱却することができるのだろうか。そのためには、まず労働あるいは仕事というものをどのように考えればいいのか、という根本的な問いから見つめ直す必要がある。

生産性至上主義から脱却するという観点から、労働というものを考え直す方法がある。長らく私たちは生産性や効率性を至上のものとして追求してきた。しかし、それが本当に人間の幸福や社会の豊かさにつながっているのかどうか、という疑問を抱くようになってきた。

GDPや経済成長率以外の指標で社会の豊かさを評価する試みが始まっている。例えば、ブータンの国民総幸福量(GNH)が注目を集めた。これは経済的指標だけでなく、文化の多様性や環境保護、良い統治なども含めた総合的な指標だ。GDPの成長だけを追い求めるのではなく、人々の幸福度や生活の質を重視する社会へと転換する必要がある、という考え方だ。

しかし、皮肉なことに、このブータンの国民総幸福量は近年低下傾向にある。これは、ブータンにテレビが広く普及したことで、他者の裕福そうな生活や商品広告が流布され、人々の欲求が刺激されたことが一因だと言われている。現状手に入っていない自分たちの状況を「貧しい」と認識するようになり、幸福度が下がってしまったのだ。

この事例は、私たちが幸福を高めるためにどうすればいいかを考える上で重要な示唆を与えてくれる。ブータンの経験は、資本主義市場の影響力の強さと、それに簡単に毒されてしまう人間の性質を浮き彫りにしている。

次に、賃金労働以外の活動の再評価という視点も重要だ。家事、育児、介護、ボランティアなど、賃金労働以外の活動を再評価する必要がある。これらの活動は経済的な価値では測れないものの、社会の基盤を支える重要な役割を果たしている。にもかかわらず、現代ではその評価は十分とは言えない。

ある社会学者は次のように提言している。「現在の経済システムでは、市場で取引される労働のみを価値あるものとしています。しかし、社会を支える多くの活動は市場の外で行われています。これらの活動にも適切な評価と報酬を与える仕組みを作る必要があります。」

創造的活動や自己実現活動の重視という考え方も注目に値する。芸術活動やオープンソースソフトウェアの開発といった、必ずしも金銭的報酬を目的としない活動が、社会に大きな価値をもたらしている現実がある。これらの活動を「労働」として認識し、支援する仕組みを考える必要があるだろう。

あるIT企業の創業者は自身の経験をこう語っている。「私が最初にオープンソースのプロジェクトを始めたとき、周囲からは無駄な時間の浪費だと言われました。でも、そのプロジェクトが今では世界中で使われるソフトウェアになっています。無意味に見える活動が、実は大きな価値を生み出すことがあるのです。」

労働の意味を再定義することで、無意味な仕事の問題に対して新たな視点を与えることができる。そうした別の角度からのアプローチも、考えてみる必要があるだろう。

では、具体的にどのようにして変革すればいいのだろうか。まず、組織の変革について考えてみよう。無意味な仕事を減らすためには、組織のあり方自体を見直す必要がある。

フラットな組織構造への移行が一つの解決策となり得る。中間管理職の削減と権限委譲の促進、部門間の壁を取り払った柔軟な組織体制の構築などが、無意味な仕事を減らす効果を持つ可能性がある。

成果主義から価値主義への転換も重要だ。短期的な数値目標ではなく、長期的な価値創造を評価する仕組みの導入が効果的かもしれない。社会的インパクトを重視した経営手法の採用なども、一つの方向性として考えられる。

自律的な働き方の促進も有効だろう。リモートワークやフレックスタイム制の積極的導入、従業員の自主性と創造性を重視した職場環境の整備などが、無意味な仕事(ブルシットジョブ)を減らし、より意味のある仕事への集中を可能にするかもしれない。

これらの変革はトップダウンの取り組みだけでなく、従業員一人一人の意識改革と行動変容が不可欠となる。組織全体で無意味な仕事を見直して改善していく文化を醸成することが、非常に重要となってくるのだ。

教育の面からのアプローチも重要だ。無意味な仕事の問題に長期的に取り組むためには、教育のあり方を見直す必要がある。

まず、批判的思考力の育成が挙げられる。既存の社会システムや仕事のあり方を問い直す能力、多角的な視点から問題を分析する力を育成することが、無意味な仕事に気づき、それらを改善する力につながるだろう。

ある教育学者はこう提言している。「暗記中心の教育から問題解決型の教育への転換が必要です。生徒たちに『なぜ』を問い続けることを教え、既存の枠組みにとらわれない思考力を育成する。そうすれば、将来無意味な仕事に気づき、それらを変革していく力が身に付くでしょう。」

テクノロジーの進歩が無意味な仕事にどのような影響を与えるかについても、考察する必要がある。AIや自動化の進展は、仕事のあり方を大きく変えていくだろう。

まず、単純作業の自動化によって多くの仕事が影響を受けることは確実だ。データ入力や定型的な事務作業はもちろん、法律文書の作成や金融分析などの高度な業務までもが、AIによって代替される可能性がある。ある調査によれば、今後10年で現在の仕事の約40%がAIによって自動化されると予測されている。特に反復的で創造性を必要としない仕事は、ほぼAIに置き換わるだろう。

しかし、これは必ずしも無意味な仕事の減少につながるとは限らない。むしろ、新たな形の無意味な仕事が生まれる可能性もある。例えば、AIシステムの監視や管理という新たな役割が生まれるかもしれない。AIの判断を解釈して人間向けに説明する仕事など、新たな形の中間的な仕事が生まれる可能性がある。

あるITコンサルタントはこう警告している。「ITの導入により確かに多くの仕事が自動化されます。しかし同時に、AIの監視役やAIの結果を人間に説明する人など、新たな中間的な仕事が生まれるでしょう。これらの仕事が新たな無意味な仕事になってしまわないよう、注意が必要です。」

結局のところ、テクノロジーが進歩して仕事が効率化されたとしても、それらを取り扱う人間の仕事が新たに生まれることで、無意味な仕事(ブルシットジョブ)が再生産されてしまう可能性があるのだ。

さらに長期的な視点で見ると、私たちが今いる労働社会の次に来る「ポスト労働社会」という概念も議論されている。AIと自動化による人間の労働需要の大幅な減少が予測され続けているのだ。

これは大昔から言われ続けてきたことだ。テクノロジーが進歩すれば、人々の労働時間はどんどんと減少・短縮されていくだろうと。しかし、その実態はそうではなく、労働時間は大して減少していない。私たちは依然として1日8時間ないしはそれ以上の労働時間を強いられており、テクノロジーは進化して総量としてできることは増えているはずにもかかわらず、私たちの労働時間は決してその分短縮されているわけではない。

ポスト労働社会を考えるときには、人間の労働需要の大幅な減少があったとしても、実際にはその労働時間に穴埋めするかのような労働を新たに生み出してしまうことで、私たちの労働時間は短くならないという可能性を考慮する必要がある。

余暇時間がその分増大するだろうという意見もあるが、実際には私たちの労働時間が短くならない以上、余暇時間が増大することも起こりえない。労働時間が減った分、その分余暇時間を使って自分の趣味や楽しみのために時間を使えばいいじゃないかという楽観主義の人もいるが、このような未来は来ないかもしれない。

無意味な仕事がなくならないという現実、そしてテクノロジーの進化だけではどうしようもないという事実を考えると、テクノロジーの進化によって余暇時間が増大するわけではないことがわかる。そのため、余暇時間を増大させようと思った場合は、テクノロジーの進化とは関係なく、社会構造や私たちの意識の変化を積極的に介入してコントロールしていく必要があるだろう。

ここで、私自身の経験も交えて考えてみたい。私は仕事の上で様々なサイズの仕事、様々な業界、いろんな立場として関わってきた。自分自身が会社の経営者として事業を提供し、従業員に給料を払い、マネジメントをするということもやってきた。外部のコンサルタントとして大企業の支援、社内の業務の効率化や組織の変更に伴う教育や規範・ルールの策定等もやってきた。中長期経営計画を策定するのを支援して、どのようにそのクライアント企業が今後のロードマップ含め計画を立てて実行していけばいいのかという支援も行ってきた。

そういった経験で多角的に見ても、この「無価値な仕事」「無意味な仕事」「クソどうでもいい仕事」(ブルシットジョブ)というものがなぜ起こってしまうのか、その原因は単純ではない。単一の問題でこの無意味な仕事が起こっているというよりも、複合的に絡み合って結果的に起こっている、温存しているということが言えるだろう。

仕組みの面の問題もある。例えば、あるプロジェクトを立ち上げて、そのプロジェクトで予算を取らなければならないとする。その予算を取るためには、そのプロジェクトがどのようなプロジェクトになるのかという様々な計画や、そのプロジェクトの中身を予算を承認する相手に対して説明をしなければならない。その中である程度の計画を立てた上で、見積もりやそれによる影響やリスクというものを初めの段階で洗い出しておかなければならない。それらが十分洗い出されていて初めて予算承認が下りる、といった流れを組んでいる会社が多い。

この場合、この全ての情報が出揃うのが、実際にはある程度プロジェクトとして動かしてみなければ得られないということもある。となると、予算承認のプロセスの間に新しい事実や正確な情報というものが後から後から出てくることになる。そうなると、それらの情報がアップデートされて資料等に反映されていく間に、当初の計画、当初の説明とは異なってくることが起こる。

そうなると承認をし直すということで、再度またその承認プロセスをさかのぼって頭からもう一度やり直すことになる。そうなると、そのプロジェクトの開始・実行を遅らせることになってしまう。しかし、プロジェクト自体は開始が決まっていて、それをそのプロジェクトを完了させなければならない終わりが実は固定されていて、そしてそれらを逃してしまうと大きな損害を出してしまう。それも自分たちのプロジェクトだけじゃなく、後続のプロジェクトや他の連結している依存しているプロジェクトに対しても大きな損害を被ってしまうといったことが起こった場合には、そのプロジェクトはもう走らせざるを得ない。

となると、その承認プロセスの中で確定していない情報を確定しているかのような資料を作り、そして見せかけだけの実際には実行できないような計画というものを無理やりに作って、そして承認をとりあえず通してしまう、といったことをやるわけだ。

しかし実際には、その計画はその通りに実行されるわけではないような計画というものを二重で立てる。そして実際に新しく追加で事実がわかった、確定されていったものが徐々に決まってきたとしても、その承認プロセスの中で先んじて出した発表したものというものは、アップデートをかけるとまた戻さないといけないので、そのまま活かせるために表面的には「当初の計画通り行っています」といったような報告をする。

するとその報告をするためだけのデータを集めたり資料を作ったりということをする必要があるので、それらも架空のものでしかないんだが、その架空のものの報告資料を作らなくてはならないという、いわゆるブルシットジョブが発生するわけだ。

実際に承認を通すために作った計画と、実行として本当に行っている計画が一致していれば、その内容は一致しているので、初めに立てた計画と実際に実行に移す計画というものが一つで済むわけだ。しかし、予算承認を通すために作った計画、そしてそれらが実態を反映していない計画、いわゆる二重帳簿状態で表面的な計画と実際に自分たちが実行で用いている計画、設計、そういったものは別であるということになると、二重で管理をしていく、二重で修正や反映というものをしていく必要がある。

そうなると、予算承認として通した相手に対して説明していった内容と、実態で自分たちが実行しているものというものが食い違うので、それぞれで矛盾を起こさないように二重の説明というものを常に用意し続けるといったことを起こす。これは仕事量が倍になるわけだ。これが「無意味な仕事」(ブルシットジョブ)が発生するメカニズムの一例だ。

何が問題かというと、承認プロセスが多すぎる、そしてその承認が通るまでの関門が多い、それだけの緻密な計画や設計内容というものを求められすぎるために、その承認プロセスの内容を厳しくすればするほど、全ての情報をそこに集約しなければならない、収集しなければならないということによるいわゆるリードタイムがより長くなってしまう。しかし、プロジェクト自体のデッドラインは決まっている。そのプロジェクトをそこまでに開始させなければならない、終了させなければならないということ自体は融通が利かない。

これらの要因によって、結果的にその無意味な仕事というものを増やしてでも辻褄を合わせることを優先してしまう、といったことが行われるのだ。

結果的に、そのようなことをずっと繰り返している組織というものは当然生産性が低いので、出来上がったそのプロジェクトの実行結果というものは大したことがない。社内の承認ばかりを何とかしてかいくぐるためというところに人々の創造性というものは使われるので、社内の承認をいかに通すかというところに創造性が発揮されるばかりで、そのプロジェクトが出すアウトプットとしての製品のプロダクトのクオリティというものは二の次になっていく。

その多くのリソース、本来であれば製品のアウトプット、サービスの質向上というものに費やされるべきリソースが、そうではなく社内の調整や承認プロセスをどう通すかというところに創造性が使われるという皮肉な状態を生むわけだ。

これらは決して特別な例ではなく、日本の国内の大企業のほとんどが同じような状況を抱えている。組織の内側でどう評価されるかばかりを多くの人が気にして、「計画通りうまくいっています」「順調にいっています」という説明をしたいがために、現実で起こっていることを優先するのではなく、そうした見栄えの良い報告ができるように報告を二重にも三重にも捏造をして、そしてその報告の中では矛盾を起こさないようにしていく。報告書の中では順調にいっているという風に説明ができるようにしていくということで、内向きに自分たちの評価というものをうまく獲得するために、自分たちのリソース・能力というものをどんどん消費していく。このような状況の結果、組織が本来持っている生産性の高さが大幅に犠牲になってしまう。特に大企業になればなるほど、この傾向が顕著になる。そして、このように温存された無意味な仕事は、全ての会社で同様の状況が起こっているため、同じ業界内や似たような類型にある会社は、お互いに足かせをした状態で競争することになる。

そのため、すぐ近くのライバルには勝てたとしても、グローバルなレベルで考えた場合には、そうした無意味な仕事(ブルシットジョブ)から解放されている会社に対しては勝てなくなってしまう。これが日本企業の国際競争力低下の一因とも言えるだろう。

こうした無意味な仕事を自分たちの足かせにならないようにどんどんと外していき、内側の評価ではなく本当にそのサービスや価値を届けなければならない顧客をちゃんと意識するようにして、顧客に対してこの生産性の高さ、上がった生産性分を提供できる、還元できるように方向を向き直す必要がある。

しかし、この問題は個々の企業だけの問題ではない。私たちの社会全体もこの無意味な仕事で蔓延されており、特に今の政治的なポリティカルコレクトネス、つまり政治的に正しいという意思決定をするという蔓延した状態では、非常に多くのこの無意味な仕事が生み出され、そしてそれらが温存されて結果的にコストの高い社会になってしまっている。

これからは、この無意味な仕事をいかに減らせるか、そして本質的な仕事、これは価値を生み出している仕事の評価を正しく行うことで、本当の意味で価値を生み出している仕事に多くの人が従事し、私たちもそこに対して多くのリソースを投じれるように、社会自体を変化させていく必要がある。

日本は長らく生産性が低い、そして無意味な仕事が多いと言われ続けてきた。それによって国際的な競争力を失い、ついには先進国とは言えないような1人当たりのGDPの金額を考えても、決して先進国とは呼べないような悲惨な状態にまで落ちぶれている。

私たちはこの無意味な仕事というものを再定義し、きちんと捉え直し、本当に価値のある仕事は何なのかというのをちゃんと見つめ直す必要がある。そして、そうした仕事に従事している人を正しく評価して、報いてあげられるような社会を作る必要がある。

ブルシットジョブ、無意味な仕事で皆さんの人生は疲弊していないだろうか。私たちのこの社会に蔓延する無意味な仕事、ブルシットジョブ。これらが私たちの人生の幸福感を下げ、そしてこの国の労働生産性を下げ、ついには立ち上がれないほど私たちが働くということに対するモチベーションや意欲、生きがい、これらも失っていく。こんな社会は生きづらく窮屈で、そして他者と団結できない、より深い分断を生み、私たちは孤立していく。

そうした一つの病理としてのこの無意味な仕事、ブルシットジョブ、クソどうでもいい仕事。これらを私たちはちゃんと直視して見つめ直し、私たちにとっての幸せな人生、幸せな社会というものはどういうものか、というのを真剣に取り組めるような国になっていく必要がある。

この問題の解決には、個人、組織、社会の各レベルでの取り組みが必要だ。

個人レベルでは、自分の仕事の意味を常に問い直し、可能な限り無意味な作業を排除していく努力が求められる。自己啓発や新しいスキルの習得を通じて、より価値のある仕事にシフトしていくことも重要だ。

組織レベルでは、前述したような組織構造の見直しや評価システムの改革が必要となる。特に、短期的な数字や見せかけの成果ではなく、長期的な価値創造を評価する文化を醸成することが重要だ。また、従業員の創造性や自主性を重視し、無駄な会議や報告書作成などの形式的な作業を最小限に抑える努力も必要だ。

社会レベルでは、教育システムの改革や労働法制の見直しなどが求められる。批判的思考力や創造性を育む教育、そして多様な働き方を認める柔軟な労働環境の整備が必要だ。また、ベーシックインカムのような革新的な社会保障制度の導入も、無意味な仕事の削減に寄与する可能性がある。

さらに、私たちの「仕事」や「労働」に対する価値観自体を見直す必要もあるだろう。生産性や効率性だけでなく、仕事を通じた自己実現や社会貢献といった側面にも光を当てる必要がある。

AIやロボット技術の進歩は、この問題に新たな側面を加えている。単純作業や定型業務の多くが自動化される一方で、人間にしかできない創造的な仕事や対人サービスの重要性が増していくだろう。この変化に適応し、新たな価値を生み出せる人材の育成が急務となる。

しかし、これらの変革は一朝一夕には実現しない。長期的な視点と粘り強い取り組みが必要だ。そして何より、この問題の重要性に対する社会全体の認識を高めていくことが不可欠だ。

無意味な仕事の蔓延は、単なる経済的な非効率の問題ではない。それは人々の尊厳や生きがい、社会の健全性にも深く関わる問題なのだ。この問題に真剣に向き合い、解決への道筋を見出すことは、私たち一人一人の幸福と、社会全体の持続可能な発展のために極めて重要な課題と言える。

私たちは今、歴史の転換点に立っているのかもしれない。テクノロジーの進歩と社会の変化が、かつてないスピードで進行している。この激動の時代に、私たちは「仕事」や「労働」の意味を根本から問い直し、新たな価値観を創造していく必要がある。

それは容易な道のりではないだろう。既存の制度や慣習、そして私たち自身の中に根付いた古い価値観との戦いになるかもしれない。しかし、この挑戦こそが、私たちの社会をより豊かで、より人間らしい場所に変えていく鍵となるはずだ。

無意味な仕事から解放された世界。そこでは、人々が自分の才能や情熱を最大限に活かし、社会に真の価値をもたらす仕事に従事できる。そして、その過程で自己実現と幸福を見出すことができる。そんな世界の実現に向けて、私たち一人一人が自分にできることから始めていく。それが、この問題に対する最も確実な解決への第一歩となるのではないだろうか。

私たちには、より良い未来を創造する力がある。無意味な仕事の呪縛から解き放たれ、真に意味のある仕事、そして人生を追求していく。それこそが、私たちの次の挑戦であり、同時に私たちに与えられた大きな可能性なのだ。

この長く困難な道のりを、私たちは共に歩んでいこう。そして、未来の世代に、より豊かで、より意味のある労働の世界を手渡していくのだ。それこそが、私たちの時代に課せられた重要な使命なのかもしれない。

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