手書きノート&ペンの何がすごいのか 私がノート魔である理由について語ってみよう

なぜノートに書くのか

私は文章を書くのが異常に速いらしい。あるとき、私の投稿やらを見ている人から「あれらの文章って書くのにどのくらい時間かかっているんですか?」と聞かれ、そういえば速いのかもなと思い立って、周囲の人たちに聞いてみたら、どうやら速いらしい。これは文章を思いつく速さに比例しているのかもしれない*1)

日頃から私のSNSへの投稿を見ている人は「今回も力作だな〜」と思っているかもしれないが、思っている以上に短時間で書き上げている。当然一気に書いたあとには推敲し、何度か手直しもするが、基本的には文章の順番を入れ替えたり、加筆したりする時間は、それほど長くはない。一気に書き上げてしまったものを眺めているだけの時間の方が長いかもしれない。

そういう意味では自分の文章とはいえ「へー面白いこと書いてるな」とか、まるで他人が書いたものを読むかのような感覚がある。

それはなぜだろうか、と考えてみたところ、結論は、書いている最中の集中状態にあると考えるようになった。チクセント・ミハイ風に言うと『フロー状態』である。そして厄介なことにそれを超えて『過集中状態』にまで達してしまうことがよくある。集中状態の間に自分が何を考えていたのか、を後になって思い出せないのだ。当然、何も考えていないはずはなく*2)、しかしそれらが明文化されていないレベルで前へ前へ進んでいく感覚だけが後になって残っている。何を考えながら書いていたのかを、すっかり忘れてしまうのである。睡眠から目覚めて見ていた夢をすっかり忘れてしまうのに似ているかもしれない。

ダンスフロアとバルコニー

デスクで仕事をするときや家で過ごすときなど、手元には常にノートを開いて置いてある。いつでも何でも書けるようになっている*3)。そして仕事をする際にも、常に「今何をしているか」を書いている。なぜか。それは『バルコニーに上がる』ためである。

集中状態にあるとき、というのは『ダンスフロアで踊っている』という状況に似ている。踊っている最中は夢中であり、そしてすぐ隣にいる人たちしか視界に入ってこない。その状態ではきっと「盛り上がってるなー」と感じるだろう*4)。しかし、バルコニーに上がって、上からダンスフロアを眺めてみると、実際は違っていたりすることに気付けるようになる。

「全体としてどうなのか」と俯瞰して考えるために『バルコニーに上がる』のだ。

中心付近以外の場所では、気怠そうにしている人や帰り支度をしている人、大きな音に耳を塞いでいる人など、実は会場全体でみればそれほど盛り上がっていなかった場合も、バルコニーから見下ろすことでやっと気付けるだろう。

しかし集中状態にある時は『バルコニーに上がる』ことは難しい。ダンスフロアで踊りに夢中になっているときにそれを中断してバルコニーに移動したくないと思うのと同じである。集中状態のデメリットは、集中を続けていると視野が狭くなってしまうことにある。目の前のことにばかり注意が向いてしまい、全体としてどうあるべきかについて考えることができなくなってしまう。

そこで『今行っていることをノートに書く』のである。ノートに書く瞬間、今自分がダンスフロアで何をしているのか、を眺めることになる。今自分が行っていることをノートに書こうとする瞬間に『バルコニーに上がる』ことになるのである。自分が何をしているのかを俯瞰して考える機会が得られるのだ。今何をしているのか、をノートにただ書くというだけで、実は過集中をかなり防ぐことができる。だからノートに何でも書く、という習慣を先に身につけておくことで、過集中を防ぐことができる。また、『今から次に何を行うのか』を書くことで、集中状態に入るきっかけを生み出すことができる。バルコニーとダンスフロアを行き来するタイミングをコントロールするのである*5)

自分が何を考えていたか、は意外に注意を払われていない

私は社のスタッフに「このとき何を考えていた?」とよく聞く。しかし多くは「覚えていません」か「よく分かりません」となる。自分が何を考えていたのか、に注意が払われていないのである。何を考えていたのか、はそれほどまでに軽視されており、それでは考えていたことの多くを活かせない。考えていたことを活かそうとしていない、とも言い換えられる。しかしそれは私も同様であり、きっと『何でもノートに書く』というクセがなければ、考えていたことを忘れてしまい、そして何かを考えていたという事実にすら気付けないだろう。それは高いレベルで集中すればするほど起こる副作用なのである。

かくして私はノート魔になった*6)のだが、それでもまだまだ「あのとき自分は何を考えていたのだろう?」と見失うことはある。しかしノートを使わなければ、もはや何を考えていたのかについてすら気にしなくなるだろう。

実は心理学では有名な『ツァイガルニク効果』というものがあり、未完了の事柄は完了済みの事柄よりも記憶に残りやすいというものがある。旧ソ連の心理学者ブリューマ・ツァイガルニクが心理実験によって実証したものである。

あるカフェで、その店のウェイターが一切メモを取らずに会計時まで注文内容を覚えていたにも関わらず、会計が済んだ途端に注文内容は記憶から消える事に気付き「会計が済んでいない未完了の注文情報は、短期記憶ではなく長期記憶の領域に記憶として保存されているのではないか」ということを考えたことがきっかけで実験をしたのである。最後まで遂行しきった作業の内容よりも、途中で作業を中断した内容の方が思い出す確率が高く、先に思い出しやすいという結果も出た。

私は上記のウエイターは集中状態にあったのではないか、と考えている。仕事を行っている最中は仕事は未完了であり、業務に対する集中が必要である。仕事を完了させると同時に一時的に集中状態から解放されたため、記憶も解放されてしまい、何を考えていたのか、すら忘れてしまうのではないか、というものだ。

私たちは集中し続けることはできない。なので作業で必要であった情報を、作業完了後も記憶としてずっと頭の中だけで保持し続けることはできない。だから、集中状態から別の作業に行動を切り替える前に一度『バルコニーに立つ』ことで、過集中からの脱出時の忘却を防ぐのである。集中状態から出た直後の瞬間であれば、バルコニーに立って俯瞰し『自分は何をしていたのか』と考えても記憶はある。バルコニーに立たなければそもそも『自分は何をしていたのか』と考えることすらできないだろう。

能力を引き出す方法として

集中状態は持っている能力を最大限に引き出すためには必須である。なのでせっかくの集中状態を活かすためにも、集中状態をコントロールすることができれば、効率的に大きな成果を生むことができる。そのために私はノート魔として何でもノートに書きまくるという行為を続けるのである。

私がノートを使うのは『正確に情報を保存するため』ではない*7)。自分の能力を拡張し最大限活かすためなのである。

新人に課す『NO文字』

弊社の新人には、社員用のオリジナルノートを支給すると同時に、文字・記号を一切排除した記入をさせてみる。文字・記号を一切使わずに何かを記録しようとすると、日頃いかに「分かった気になって満足しているか」に気付けるようになる。

会議やアドバイスを受けて、それらの文言をそのまま文字にした「なぞっただけ」の記録は議事録にはなるが、それらはメモとなんら変わらない。そんなものは音声入力やカメラ、Evernoteなどのツールの方が優れている。私の考えるノートの価値とは、『思考を拡張する』ために使えることである。

新人には「全く日本語・英語が通じない他国の人に説明するとしたら、どのように書くのか」という課題を与える。文字の使用を禁じられると、最初は『最も有効な武器』を禁じられた気がして途方にくれる。しかし不慣れながらも文字なしで図やイラスト、グラフを書き出すと、実は文字以外の表現方法には『無限の選択肢』がある、ということに徐々に気付き出す。

そう、私たちは文字に自らを縛って生きており、そしてそれら文字の抽象度に甘えて具体的な理解をせずに、多くを「理解した気」になっていることがいかに多いことかに気付くことなく生きている人がほとんどである。

私がノートに書いていることのほとんどは、読んだこと、聞いたこと、理解しようとしていることを「どうすれば文字なしで描き表すことができるか」をなんどもなんども書き直しては試行錯誤しているその過程である。

それによって、リアルタイムに書き表そうとする時点で、「自分が何を知らないか」を知ることができる。なので対象がまだ目の前にあるうちに質問したり、読み返したりすることができる。

『知識の錯覚』を体感させる

多くの人は、「自分が知らない」ということに、対象が目の前からなくなったずっと先に思い知ることになる。そしてその頃には「もう別に知らなくてもいいや」と諦めることになる。

いかに早く「自分が何を知らないのか」を知ることができるか。

私たちは放っておくと、『知識の錯覚』に陥ったまま、それに気付かず先に先に進んだ気になってしまう。錯覚の厄介なところは、錯覚に陥っている当人は錯覚に気付けないことだ。

「知らない」ということを知ることがいかに難しいか、これを弊社の新人に気付かせる機会として、文字なしでのノート記入を課す。

注釈

1 単に思いつくことが多いだけかもしれないが。この文章は3,500文字程度。一気に書き上げるまでにかかった時間は15分。そこから眺めて推敲して加筆修正を10分。トータルで25分だった。また2日後くらいに読み直して、誤字脱字などの多少の修正はするかもしれないのでプラス5分としても30分。7,000字/時というペースは小説家の森博嗣さんには負けるが、西尾維新さんには勝てるかもしれない。でも小説家さんと違って私は一日中これら文章を書き続けているわけではないので、1週間やら1ヶ月などともう少し長い尺度で比較することになれば全然負けていくとは思っている。私の仕事上、書くためだけに充てられる連続してまとまった時間はせいぜい30分くらいが限界という言い訳もしておく。しかし森さんは「仕事は1日に1時間以内と制限していています」と言っているので、言い訳でも勝てないということである。
2 でなければ意味の通った文章など書けるわけもない。何かが『降りてきている』などというオカルトを語る気はない
3 そして実際何でも書いている。なのでノートというよりもメモに近いが、意味のあることも書いてまとめてあったりするので、私にとってはノートなのだ。いやそもそもノートだメモだと定義すること自体、ここでの内容に関係ないので、そうした議論は面倒なので避けておきたい
4 踊っている状態では自分は楽しいので、感情が判断に影響を与えてしまうので、実際よりもより盛り上がっていると判断しやすくなるだろう
5 書いてみて思ったが、なんだかカタカナ英語ばかりで気持ち悪いが、意識高い系っぽく見えたならその印象は間違っていないかもしれない。私もそう思った
6 正確には私は自分自身のことをノート魔だとは思っていないが、事実を振り返ってこのノートの消費ペースを考えると、それはノート魔と呼ぶにふさわしい行動をとっている、とは思っている。単に事実を認めたくないだけなのだ
7 情報を記録・保存するという目的であればデジタルツールを積極的に使うべきである。私も情報の記録・保存にはデジタルツールを使っている。デジタル対アナログ、という二項対立としてノートを引き合いに出しているわけではない。そもそも目的が異なるのだ

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